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倉敷市立西中学校


分散校舎時代

黎明期 >誕生 >分散校舎時代

新しいスタートに生徒たちは希望と意欲に満ちていた

創立当初本校は、旧岡山県蚕業試験所跡(通称・養蚕試験場)の建物を校舎として使っていた岡山県倉敷中学校内(倉敷市富井=現在の西富井で岡山県立倉敷中央高等学校がある場所)に、教室を一部借りて本部と本校舎を置いた。本部には校長がいて、週1回は4分散校舎の専任教員と各校を移動して教えていた教員全員が集まり職員協議会を開き、連絡を密にして統一的な教育指導を図った。
離れた4つの校舎間を一日に幾度となく自転車で移動する先生。教科書や教材もなく、チョーク1本も小学校から借りるという不便さの中で、手探りしながらも熱意とパワーで突き進んだ当時の先生方のご苦労は計り知れないものがある。
「学制改革がなされたばかりで、新しい指導方針さえはっきりしない混乱の中のスタートでした。教科書はなく自分たちが使った旧制中学の教科書を使ったり、教材も藁半紙にガリ版刷りで手作りしていました」と当時の先生は振り返る。こんな不便な環境ではあったが、生徒たちの表情はいつも明るく意欲的だった。運動場での音楽の青空教室をしたことや、教科書を自分たちで手作りしたことも楽しい思い出だ。

西中が一つに統合~4分散校舎から日吉町の現校舎に移転

昭和23年4月6日、岡山青年師範学校(昭和26年に岡山大学教育学部として発展解消し、閉校する)の校舎の一部を仮校舎として、現在の倉敷市日吉町205番地の校舎に移転した。校章に表された4つのペン先(分散校)は苦難の時を経て、やっと一つになったのである。
戦後の物のない時代、教員の中には進駐軍の払下げの軍靴、戦闘帽、軍服という姿の先生もいた。生徒たちの服装もいろいろで、男子は学生服、女子はセーラー服にもんぺという姿が多かった。運動靴は稀少なもので、生徒たちは下駄やぞうりが一般的だった。
当時日吉校舎には、岡山青年師範学校とその附属の中学校・高等学校(後に倉敷市立精思高等学校に改称)、そして本校が同居しており、教室不足は深刻。1学級に50人~60人の生徒がぎゅうぎゅう詰めという状態だった。校舎も運動場も本校が使用できる場所は決まっており、南側の校舎を本校が使い、北側の校舎には立ち入り禁止だった。西側の大グラウンドは他校と共用で、朝礼などほとんどは南側グラウンドを使っていた。

創立時の流れ図

パイオニア精神で西中を築く生徒たち

新制中学の始まりで、何もかもが手探り状態。しかし、教員も生徒たちも一丸となって母校を築き上げようと力を合わせた活気あふれる時代だった。生徒会活動も高校生たちを手本に見様見まねで生徒たち自身が作り上げた。生徒一人ひとりが「自分たちの手でやるんだ」という独立独歩の心構えがあり、旺盛なパイオニア精神で本校の創立期の歴史をつくった。
教員と生徒との関係は親密で、休み時間など職員室に生徒が集まり、先生の手伝いもよくした。「先生たちは厳しかったけれど、放課後や休み時間には、野球などして生徒たちとよく遊んでくれました」というのが、1期生たちの声だ。
昭和21年に完成した岡山県立倉敷図書館(現・キリスト教会付近)や岡山で開かれる日展などへも課外授業として出掛けた。年に1,2回は文部省推薦映画の鑑賞に、全校生徒で川西町の松竹劇場に行ったことも楽しい思い出だ。NHKテレビ放送が開始されたのが昭和28年。娯楽が少ないこの時代、書物や文芸に触れるこのような機会は、当時の生徒たちにとって胸ときめかす体験学習だったに違いない。
昭和24年5月には、四十瀬に倉敷市営球場が完成。本校生徒たちは球場の土地整備のための土踏みに行き、広いグラウンドを思いっきり踏み締めた。倉敷の発展に目を見張り、肌で体感できる喜びがあった。

「倉敷市立西中学校 50周年記念誌」より抜粋