本文へジャンプ
トップページ倉敷市教育委員会トップページ文字サイズ変更
文字を拡大する文字を標準にもどす文字を縮小する
背景色変更

倉敷市立二万小学校

学区の概要

<概要>
  真備町の南端に位置し,地形の大半は丘陵地で,斜面はぶどう畑に利用されている。ほぼ中央を流れる小田川の支流二万谷川沿いに平地(水田)と集落が存在し,ほとんどが兼業農家である。昭和50年代初め,水島工業地帯のベッドタウンとして大規模な住宅団地ができた。
    さらに,学校の側を通る県道大曲船穂線が開通し,交通量も増してきた。学区民は教育に対して関心が強く,学校教育の進展のためには,熱意をもって全面的な協力を惜しまない。

<歴史> 「地名の由来」
 ここの地名は古くは,邇麿(にま)または爾麿(にま)と書き,後に二万となっている。
 二万の歴史を紐解くと660年白村江の戦いにさかのぼる。百済よりの救援に対して斉明天皇,中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝鮮出兵を決断する。そのための兵は真備町内からも集められたという史料が残されている。「意見封事十二箇条」によると,「下道郡に邇麿郷有り。ここに彼国(備中国のこと)の風土記を見るに,皇極天皇(斉明天皇のこと)の六年,大唐将軍蘇定方は新羅軍を率いて百済を伐つ。百済,使をつかはして救いを乞ふ。天皇筑紫に行幸して,まさに救兵を出さんとす。時に天智天皇,皇太子として政を摂し従ひて行く。路に下道郡に宿す。一つの郷を見るに,戸邑甚だ盛んなり。天皇詔を下して,試みに此の郷の軍士を徴す。即ちすぐれたる兵士二万人を得たり。天皇大いによろこび,この邑(むら)を名付けて二万郷といふ。後に改めて邇麿郷といふ。其の後,天皇筑紫の行宮(あんぐう)に崩じ,ついに此の軍をやらず。然れば則ち二万の兵士いよいよ蕃息すべし。」
    白村江の戦いに際し,真備町二万地区より二万の兵が集められたというのは,二万(邇麿)の地名を説明するためのこじつけに過ぎないが,日本の古くからの朝鮮計略には吉備地方の豪族が利用されているので,白村江の戦いの場合にも,この地方からかなり大量の兵員が送り出されたことは間違いない事実である。なお,邇麿(にま)郷の地名の意味は,二万の兵を出したからというのではない。邇(に)は丹(に)に通じ,水銀等の鉱産物と関連するのである。だから,邇麿郷は水銀等の鉱産物を産出し加工する村という意味である。現在の二万地区の反古山(ほうぐやま)には西金山,東金山の地名が残り,古い鉱山の跡という。また,二万矢形附近よりタングステンも発見されている。