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倉敷市 庄公民館

研修活動

令和6年度 手話教室・手話交流会

   
 
 
 

 7月20日(土)、庄手話サークルの皆様にご協力いただき、聴覚障がいに対する理解と認識を深めていただく目的で、手話教室・手話交流会を行いました。 毎回、子どもも大人も手話に興味が持てるように、サークルの皆様が工夫を凝らした内容を考えてくださります。当日は、庄小・中学校の児童生徒、保護者の皆様、教職員の方々、地域の方々など約50名の皆様にご参加いただきました。
 初めに、「近い」と「遠い」など身近な反対ことばの手話を教えていただきました。手の動きだけでなく、顔の表情を加えて表現するそうです。約20組の反対ことばを教えていただいた後、「覚えられましたか。」と問いかけられると、手話で「覚えた」もしくは「忘れた」と表現し、さっそく1つ手話を覚えられた様子でした。
 次に、「にんげんっていいな」という歌を手話で歌いました。歌詞一つ一つのことばの手話を教わり、全員で何度か手話で歌っているうちに、表情も豊かになり、はっきり表現しながら歌うことができました。
 最後は、手話で伝言ゲームをしました。相手に伝えたいという気持ちがあると、自然と身振りを大きくしたり、表情を加えたりと工夫していました。伝わりにくかった手話の意味を知って「なるほど」と納得する声も聞こえてきました。会の締めくくりは、手話で「ありがとう」をお互いに伝え合いました。
 参加された方からは、「ゲームを通して楽しく手話を覚えることがでた」、「手話でいろんな人と話してみたい」、「今回参加して手話に興味が持てた」など感想をいただきました。倉敷市では、2021年12月に手話言語条例が制定されたこともあり、この会が地域の皆様の手話への関心、興味を持つことに繋がり、あたたかい地域づくりへの一歩となっていただけると幸いです。





 

令和6年度 研修視察

    
 
 

 9月7日(土)、推進委員及び関係団体の皆様、合わせて18名で鳴門市「ドイツ
館」(徳島県鳴門市大麻町桧東山田)へ研修視察に行きました。
 
「ドイツ館」は,板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵捕虜たちの活動や,地域の
人たちとの交流の様子を展示した史料館です。板東俘虜収容所は、第一次世界大戦
期の1917年,徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に建てられた捕虜収容所
です。日本軍やイギリス軍などの連合国の俘虜(捕虜)となった,ドイツ帝国将兵及
びオーストリア=ハンガリー帝国の将兵ら約1000名を収容していました。 当時
は,捕虜の待遇改善に向けた取り組みが行われていて,1907年発効の「ハーグ陸
戦条約」など,捕虜の保護に関する条約が国家間で交わされました。そのことによ
り,多くの国で捕虜は穏やかな扱いを受けていました。日本においても,この国際法
を遵守して収容所での運営が行われており,とりわけ板東俘虜収容所においては,捕
虜らの自主活動が奨励され,捕虜に対してきわめて寛大かつ友好的な処置が行われま
した。

 板東俘虜収容所に収容されていた捕虜の多くは志願兵となった元民間人で,各分野の専門家が多くいました。そのため,経済・政治学から,ウィスキー作りやビール醸造,ソーセージやパンの製法,楽器演奏に至るまで,様々な技術指導を受けるここができました。また,一定の秩序の下,捕虜に生産労働や文化活動が許可されていました。日本語教室や芸術活動,各種スポーツを楽しむ捕虜の活動は町の人々の興味・関心を引き,見学者の訪問も絶えませんでした。収容所が日独交流館の様相を呈していくにつれ,町の人々のドイツ兵捕虜への親しみは増していきました。そして,1918年には日本で初めて収容所で結成された楽団によって,ベートーヴェンの交響曲第九番が演奏されました。
 太平洋戦争開戦直後,日本は捕虜の人道的待遇を定めた「ジュネーブ条約」を適用することはなかったようです。日本軍による捕虜への暴力は多発し,極度の物資の欠乏や重労働と相俟って,日本側の捕虜の取り扱いは,「人道的」には程遠いものであり,捕虜収容所での待遇は過酷なものでした。

 今回の研修では、武力紛争下の捕虜の扱いを通して、戦争と人権について考えることができました。当時の様子がわかりやすく再現されており、学びやすくとても有意義な研修になりました。