kosya
郷土の偉人「三島中洲(ちゅうしゅう)」

三島中洲(子どものころの名前は三島毅)は、天保元年(1830年)12月9日、備中国窪屋郡中島村、現在の岡山県倉敷市中島に生まれました。

14歳の時、備中松山(現在の高梁市)で山田方谷から陽明学を学び、29歳で江戸の昌平黌で、佐藤一斎に学びました。その後、東京で漢学塾二松学舎(現在の二松学舎大学)を創設しました。

明治維新後には、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官などの要職に就きました。

明治32年(1899年)には、明治天皇と皇后に漢学を進講しています。

大正8年5月12日に、90歳で死去しました。


学校内にある中洲の作品

「義は利の本なり(ぎは、りのもとなり)」
三島中洲は、山田方谷が行った有名な備中松山藩の藩政改革で大きな貢献がありました。この時の経験から『正義とか節目があって初めて利益が生まれる。利益を最初に考えて行動してはいけない』と考えるようになりました。
(中島学区郷土を学ぶ会 資料集 三島中洲の書 より)


中島小学校の体育館に併設されている「郷土資料室」の額
三島中洲90歳の時の作品
老子の教え「身なりは粗末でも中に玉を抱いている」という言葉から、賢者はその才能を外に見せないという意味です。

生歯の碑(中島 実際寺の境内)

実際寺の境内にある三島中洲の「生歯の碑」です。父母が眠るふるさとの墓へ、自分の代わりとして歯を埋めてもらいました。


「生歯の碑」を読んでみましょう

生家跡に建つ記念碑(中島 西町)

5年生が総合的な学習の時間に訪問して、郷土を学ぶ会のみなさんから三島中洲について教えていただいています。