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| 葦高小誕生の背景 |


| 葦高小学校は昭46年4月大高小学校より分離新設されたものであるが,大高小学校の 学区は,純農村として戦前戦後を通じて12学級の適正規模を維持してきたが,水島工業 地帯の開発とともに,その背後地域すなわち住宅地域として急速に変貌し10数社におよぶ水島地区各企業の住宅団地が建設され,児童数も急増を重ね,昭和40年度に557名13学級が昭和45年の児童数1,252名32学級と大幅に膨張し昭和50年を推定すると児童 数2,000名約50学級という超マンモス校となることが予想された。 また,大高小学校の校地面積18,339uと文部省基準からみて13学級が適当であり, 基準の70%としても20学級が限度である。なお,校地の東に大高街道(県道)西に市道が走り,更に西と北を幅20mの都市計画道路が予定されており,拡張の余地が全く考えられ ない。 大高小学校分離の必然性について行政当局はもとより,大高小学校,地元としても急速 に膨張していく姿を目の前にしてその早期実現を期待する声が次第に醸成されていた。こ のような基盤の上に葦高小学校誕生の気運が高まったのである。 |
| 学区域の制定について |
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| 昭和45年度に学区の線引きに必要な地域別,団地別児童数,推定数,地形,歴史,交 通事情等の資料が整えられていった。また一方,それらの資料と関連して何回となく現地 踏査が行われ,どんな小さな道,溝までも調査しその間地区住民の感情もいろいろと配慮 したうえで葦高小学校学区の線引きが行われたのである。 このように,学校規模,交通事情,地域団地の社会生活のまとまり,地域の歴史,住民感 情をもとに,12学級から19学級までの第1案から第7案までの7案の線が引かれた。検討 の結果第7案の16学級案に絞り,昭和45年9月18日に最初の学区説明会を開いた。協 議の結果に基づき,さらに検討を重ね,12月に説明会をもって学区についての了解を得, 後日学区審議会の答申をまって教育委員会で決定したのである。 |
| 校名が決定されるまで |
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| 倉敷地区の社会増対策による新設校しては,昭和42年の霞丘小学校,昭和44年の中 島小学校につぐ3番目の新設校として誕生したのであるが,校名についても,他の2校と同 じように,新しい学校にふさわしい固有名詞でなければいけないとの話し合いがあり,次の 4つが考えられた。 |
| 1案 芦戸小学校 2案 葦高小学校 3案 高南小学校 4案 新高小学校 |
第2回新大高小学区説明会に於いて校名について,いろいろと議論されたが,第2案の葦 高小学校と決定した。その主な理由は, |
| @旧地名が葦高村であったこと A学区の象徴である足高山に関連があること。 |
学区の歴史をひもといてみると,明治34年4月大高村と葦高村の2村が合併して大高村と 改称され大高尋常小学校が生まれたのであるが,それまでの葦高村がほぼ現在の葦高学 区にあたるのである。 |